原  裕さん(ぬはり)




<ひらがなにのみかきしるすうたありていろはにほへとちりぬるこころ>

     
☆初お目見えに、甚く気に入り、メモに残してあった歌の中の一首。
      作者の中では、ずいぶんと初期の作品と記憶している。
      句またがりの歌であるのに、スムーズに流れる調べ・・・短歌は、
      とどのつまり歌謡であり、調べと哀惜を命としているものである
      から、まさにその理想をいっていると感じたものだった。
      ややもすると、ひらがなばかりの歌は、詠み難いし読み難いと敬
      遠されがちであるし、意味を取り違えるので、句またがりや字余
      りは使えないという定説まで、覆して、しみじみと味わえる歌に
      仕上げたこともすごい。
      何気ない引用が、心に響く。



<玉響の吐息に満ちてこともなく同じところで笑えた夜は>

     
☆特にコレと言って、言葉できちんと説明できるような理由がある
      わけでもないのに、思わず顔を見合わせて微笑んでしまうことが
      ある。同性、異性にかかわらず、通じ合える心を持つ人のいると
      いう心地好さ。その空間・・・・。
      それを、いい響きと言葉で表現されています。


<今のみとつのらばいとし舞う雪のそそぐ梢にひさぐ心に>

     
☆静かな境地にさせられます。ある意味何かを悟っているのかもし
      れません。「ひさぐ」は、「拉ぐ」でしょうか?ひらがなにした
      ことで、多義的に意味をうらに秘めているかもしれませんが。
               



<涙することさえならず潤む目に月はクロスの刃を降らす>     

     
☆泣くに泣けない、泣くことは許されないという場面で見た月は、
      平常心で見るやわらかな光を湛える月ではない・・・。
      涙で潤んだ瞳で見た月光は、四方に尾を引くように光り、それは、
      まるで、自分に降ってくる十字の刃のように鋭い光と・・・・。
      見る人の心のありようで変化する月光を見事に表現されていると
      思いました。


岸上 大作さん(1939年生まれ)


<意志表示せまり声なきこえを背にただ掌の中にマッチ擦るのみ>

     
☆今の時代には、煙草を吸うときにマッチを擦るという姿を見かけ
      ることが少なくなりましたから、その時代を背景に歌を詠まなけ
      ればなりません。
      彼を扱った本には、「恋と革命の挫折によって21歳の若さで短
      い生涯を区切」った人と、解説されていました。
      時は、昭和35年と言いますから、安保闘争の最中です。
      何か意思表示を迫られている・・・・ただし、<声なきこえ>です
      から、具体的な誰かによってということではなく、自分が決断し
      なければならないという場面に直面している時なのだと思います。
      その場面で、「ただ掌の中にマッチ擦る」だけですから、なんの決
      断も出来ないでいる苦悩なのでしょう。そのときの本題に係ること
      は、何もできない、決断できぬ苦悩なのだと思います。
      時代背景を知らずとも、本題に関わることはなにもしないとかでき
      ないという何らかの苦悩の中にいる歌であることは、充分に伝わる
      31文字でした。


<かがまりてこんろに青き火をおこす母とふたりの夢つくるため>

      
☆「青き火」であることに心寄せられるものがありました。

       
悲しく響くこのお歌・・・母とふたりの夢の実現はならなかった
       のですが、今、ふるさとには、平成3年に亡くなられたお母様と
       戦時中に病死されたお父様とに挟まれて三人並んだお墓があるそ
       うです。


<耳うらに先ず知る君の火照りにてその耳かくす髪のウェーブ >
<美しき誤算のひとつわれのみが昂ぶりて逢い重ねしことも>


      
☆もうひとつの彼の持つ側面は、何となく、不器用とも言える幼い
       恋になやみ、その儚さを詠ったものに見え隠れする気もいたしま
       す。


三枝昂之さん(りとむ)


<春寒のヒーターは消えまた点きて四十なかばの苦しみなかば>

☆「三枝昂之は永遠の闘争者としてありたいのではないだろうか」と彼の第三歌集『地の燠』で評した人がいた。
 彼の短歌の出発点に興味を持ったきっかけになった。
 学園闘争という時代に生きて、そこで獲た時代と社会という二つの苦悩?


紀野 恵さん(1965年生まれ)


<檸檬(リモーネ)が滴り白布薄染みをかこちがほなる夏ゆふまぐれ>

☆「かこちがほ」=「かこち顔」は、(何かのせいにして嘆いている顔)とか(うらめしそうな
)という意味になる。ふと思い出すのが、西行法師の
嘆けとて月やは物を思はするかこち
顔なる我が涙かな」
(嘆きなさいと言って月が私に物思いをさせるのだろうか。そうではない
のに、月のせいにして恨めしくこぼれ落ちる私の涙よ
)である。

 たぶん、西行法師がそうであったように、直接的には、檸檬の滴りが作った染みのせいで
はなく、別な原因があったのだろう。けれど、それを抑えて、あるいは、自らその原因から
気をそらして「檸檬が染みを作ったせいでせっかくの夏の夕まぐれに恨めしい顔をしている」自分を第三者的に眺めて詠ったのであろうことが想像できる。それは、「かこち顔」という
キーワードが作り出す妙である。
そして、「顔」と言えば、もうひとつ「あきらめ顔」が見
えてくる歌があった。

<だいあろおぐあきらめに似て照る月は言葉の海を笑つてゐるのさ>

どこにも、「顔」という文字はないのだけれど、作者のあきらめ顔が見えてきたのは何故
だろう。
<だいあろおぐ>は、ダイアローグをひらがな表記したものだ。辞書で調べてみると、
(対話・問答・小説や劇の対話の部分)と記されている。とすると、自然に<言葉の海>は台詞
であることが理解できる。あとは、
<あきらめに似て>で切れば、(あきらめのような対話を
月が笑っている
)であるし、<あきらめに似て照る>で切れば、(海のように果てしなく続く対
話を月があきらめて笑っている
)のかである。それは、量れない部分ではあるが、その時代時
代で捉え方が異なりそうな気もするし、それも作者の意図のように思えてならない。
どちら
にしても、あふれかえる言葉の海で、真意がつかみ切れず、溺れそうな中にある私たちを高
いところから笑っているものがいると気づきながら、どうしようもなく、一緒にあきらめて
いる顔になっているのが見えてくる。

因みに、誰の評であったか調べようがなかったが、「実際に月が笑うはずもなく、この月
さえも紙で出来たものだ。」と取るむきもある。それこそ、作られた月
(ペーパームーン)
作られた言葉
(台詞)を笑うのだから、あきらめ顔だということだ。こんな短い定型に収めら
れるものでも、なかなか深いなあなどと一瞬でもわけ知り顔になっている自分を反省しつつ、謙虚に学びを進めよう。


 

永井陽子さん(1951年生まれ)

「短歌はふしぎな楽器である」という永井陽子に強く惹かれたのは、今から数年前、恩師か
ら贈られた『小さなヴァイオリンが欲しくて』という歌集がきっかけだった。
そこにはまさ
しく「歌の世界」「音の魅力」が広がっていた。誰のまねでもない独特の感性が、オーケス
トラのスコア(楽譜)のように、いろいろな形の音を紡いでいた。

<あはれしづかな東洋の春ガリレオの望遠鏡にはなびらながれ>           

<べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊>          
などは、彼女の代表歌である。代表歌と言われながら、前者については、歌の解釈が、人そ
れぞれであり、ぐらぐらと揺れている。ああでもないこうでもないと謎が広がっている。

かし、その広がりは分けの分からないものではなく、それぞれの人が抱えている世界観の中
で、自由に泳ぐ音符のようなもので、心地よい感じさえある。
この歌の持つ多義性が、詠み
手(作者)と読み手(読者)による大きな歌の世界を構築している。「ガリレオの望遠鏡」
から、ある人は「ガリレオ自身の望遠鏡」を思い、またある人は、「ガリレオ型の望遠鏡」
を覗いている人を思う。その段階で、この歌は、別々なベクトルで広がる。
私は、西洋人の
ガリレオの望遠鏡に東洋の静かな春のはなびらが映っていたら、失明などせずにしたかもし
れないガリレオのあわれを想像した。(ガリレオはのちのち太陽を覗いたために失明したと
いう言い伝えがあるので)つまり、勝手に初句三音の切れで読んでみたのだった。裡には、
何に対しても急速だった西洋の発展と対比した東洋の穏やかな時間の流れをも感じ、「時に
はゆったりもいいものよ」という作者の声まで聞こえてしまう。
詠み手の手を離れた歌は、
読み手の知識や世界の中に宿るのだから、これもまたひとつ。


一つの歌が、詠み手の意のままに解釈されることも大切であるが、読み手の側に引き寄せら
れ、別の世界観で広がりを見せ、共感が生まれることも充分に短歌の魅力である。

 そして、後者は、古語の推量や当然などの助動詞「べし」の活用形である。鼓笛隊が並木の
向こうから来る様子が、この活用のおかげで、遠くから近づいてくる景色になる。「見えな
けれど、この音は鼓笛隊にちがいない。」「きっと鼓笛隊だろう」「鼓笛隊にちがいない」
である。確かに、近づいてきたから、すばらしい。彼女の歌に付き合うには、薄れていた想
像力と感性を磨いていかないといけないと思わされる。歌は、芸術であり、文学であり・・。


 
 
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